(さとり)



都会の空は四角く切り取られ、本来抜けるように青いはずの色はスモッグで鈍く、褪せる。
それを投影するかの如く人の心も鈍く濁っていくのだろうか。
人が人を陥れる世の中で、愛は意味を無くし、自分が生きる為だけの手段となっていく。
誰もが皆、求めるものは同じだというのに。
「自分」という確かな存在を受け止め、認めてくれる誰かを探している。唯、それだけ。
それすらも分からなくなるほど、濁った目では、本当に大切なものなど遥か遠くに霞む。
もがいて、もがいて、人はどこへ行こうとしているのだろう。
迷い続けていては、どこへも辿り着けないというのに・・・





陽が落ちても煌々と照らされるネオンの明かりは、街が休むことを許さない。
今宵も女たちは着飾り、爪を研ぐ。
自らの「美」に群がる男を食い散らかし、無理やりに道を作り。
彼女達は言う。

『騙される方が悪いんじゃない』

『向こうだって恋愛ゲーム楽しみたいだけでしょ?その代金を受け取ってるの』

艶やかに彩られた唇で、鬼の言霊を吐き出す。
それが、いつしか自分を本当の闇へ陥れるとも知らず・・・






「あの女、殺してやる」

ポケットの中で握り締められたナイフに爪を立て、男は決意を口にした。
喧騒から外れたこの町は、深夜0時も過ぎると人はおろか、車の往来すらも途切れてしまう。
そんな静かな町の、薄汚れた雑居ビルとビルの間の路地で男は女が通るのを息を潜めて待ち続けていた。
人二人がやっとすれ違える細い路地は、通りの反対側は行き止まりで、ゴミ箱とそれに入りきらなかったゴミの山が異臭を放つ。
それすらも男は気にならず、冬の寒さの中、額には脂汗が滲んでいた。

男は女にこれ程までの殺意を抱くようになったきっかけを、思考のまとまらない頭で思い返す。
派手な店構えの、女が酒の相手をする店へふらりと立ち寄った。
誰でも良い。この虚無感を忘れさせてくれるなら。
たった一時間でも。
最初はそんな気持ちだった。
そこで、初めて女に出会った。
良く手入れされた長い髪を自慢気にかき上げ、極上の笑顔で女は男の隣に座った。
『初めましてぇ。   ですー。』
名前はなんだったか。艶かしく動く潤んだ紅い唇。それしか記憶がない。
女は聞き上手で、今までこんなに自分はしゃべった事があるだろうか、と思える程に会話に夢中になった。

『うんうん。』

『それで?』

『そっかー大変だったんだねぇ。』

今思えば、それは男が金に代わると見越しての計算だったと分かる。
だが、男はそれから女の売り上げを上げる為に必死になって店に通い続けた。
女が欲しいと言えば、どんな物でも買い与えた。
『私がこんなにわがまま言えるのはあなただけよ。』
そんな甘い言葉に有頂天になった自分。
きらびやかな外面だけしか見れなかった自分。
貯金を食いつぶし、店にもそうそう顔を出せなくなって。それでも女に会いたいと、帰りに待ち伏せをしていた時に言われた言葉。
『ストーカーとか、ひくー。客だから相手してただけでしょ?あんたもそのつもりだと思ってたけど。』
ふと、我に返ったら、女はなんと醜悪で澱んだ目をしていたのかと気付く。
喰っても喰っても満たされない腹を抱えて、人に取り憑く餓鬼のような。
(俺は鬼に騙されていたんだ。これは、鬼退治なんだ。)
わなわなと震える唇からは白い息が短い間隔で吐き出され、見開かれた目には怪しい光が宿る。

『ピピピピ』

小さな電子音が静寂の中鳴り響き、腕にはめられたデジタル時計が丁度一時を指した。
男の鼓動が早くなる。
そろそろ女が通りでタクシーを降り、自宅までの道のりを客に電話をしながら歩いてくる時間だ。
どくんどくん、と脈打つ鼓動が頭の芯まで響いてくる。
ぎり、とナイフを握り締めた。



「おやめなさい。」



と、突然。今まで沈黙していた路地の突き当りから声が聞こえた。
男がびくりと身体を震わせ、瞬きもできないまま食い入るように先を見つめていると、ゴミ袋だと思っていた塊がごそりと動いた。
「お前さんは、こっちの住人じゃあない。悪いこたぁは言わないから、おやめなさい。」
黒いフード付きのマントを鼻の辺りまですっぽりと被った奇妙ななりをしている。
その声は老人のように皺枯れていて、不気味な響きが頭を直接震わせるようだった。
「な、なんだよ。お前・・・。」
やっとの事で搾り出した声は掠れている。
額に浮き出ていた脂汗は、冷や汗へと変わっていった。
「その手の中の物騒なもんは、本来は人刺す為にあるもんじゃあない。身体使って切れんもんを切れる便利な道具だて。」

「―――――――!!―――――――」
戦慄が走る。

ここに来てから一度たりともポケットから出していないナイフの存在をなぜこの不気味な老人は知っているのだろうか。
「俺にはお前さんの考えてる事がよぅく分かるのさ。その女ぁ本当に鬼かい?」
身体中の血液が凍りつくような感覚。
知らずに口に出していたのだろうか。
「いや、お前さんは一っ言も口にゃだしておらんよ。」
闇の中の顔が、にやりと笑った。そんな気がした。
全身を襲う恐怖。
目の前の老人は人ではないのか。
だとしたら、自分は今「何」と向かい合っているのだろう。
もう男の頭の中はそれだけしか考えられなくなっていた。
「俺は人間とは違うが、怖がらんでもいい。」
頭の中に響く声が、次第に男の思考を緩やかにしていく。
この、例えようもない恐怖から逃げ出したいと、ふるふると頭を小刻みに振り、あとずさろうとするも、恐怖に強張った足は思うように言う事を聞いてはくれなかった。
「逃げんでもいい。取って喰いやしないよ。俺はな。今宵は久し振りの夜行(やぎょう)でな、奴等ぁ通るの待ってるのさ。」
男には老人の言葉が理解できなかった。
やぎょうとはなんだろう。
奴等とは、誰の事だろう。
この人ならぬ老人の言う事は、男の理解を遥かに超えていた。
「おぉ、おぉ。そろそろ時間だて。奴等の声が聞こえてきたなぁ。」
老人の声以外何も聞こえては来ない。


ふと、通りで車が止まる音が聞こえた。
「ありがとー。・・・・・うん、それでさぁ。」
聞き覚えのある、鼻にかかった甘い声。
ポケットからナイフを取り出し、男は弾かれる様に通りへ向き直った。


瞬間。


男の肩は黒い毛でびっしりと覆われた鋭い爪を持つ手で止められた。
物凄い力だ。
「もう一度言う。悪いこたぁ言わないから、やめときな。」
自分の肩に食い込む、人間のものではない手から視線を外せない。
老人の口から漂うなんともいえない芳香にくらりと眩暈がした。
男はその場に膝をつき、力なく肩を落とす。
「女ぁ鬼なら俺らの仲間だ。道行(みちゆき)増えて奴等も喜ぶだろうよ。」



そう言い残し、老人は通りへ出て行った。
静寂を破り、突然ざわめき声が辺りを揺らす。
笛やら太鼓やら、祭りの囃子に近い音と、異国語のざわめき。
男が凝視する狭い路地の出口には、およそ人とかけ離れた姿のモノが踊りながら十重(とえ)、二十重(はたえ)と通り過ぎていくのが見えた。
ざわめきの中、あの甘い声が耳に届く。
「でさ、明日ぁ・・・・・え、ちょっと。なんだろ?こんな時間に祭り?」

「うん。向こうからヘンな集団来るんだよねー。ほんっと迷惑。」

「え・・・何?こいつ等!!・・・・・やっ!」

男の側にスピーカーでも置いてあるかのように、はっきりと、鮮明に聞こえた。
次の瞬間、女の悲鳴が耳を劈く。
「「きゃああああああっ!!」」








男はどのくらい座り込んでいたのだろうか。
空を覆っていた雲が途切れ、路地に月の淡い光が差す。
深夜の冷気に身体がぶるりと震え、男はのろのろと立ち上がった。
重い足取りで通りへ出ると、そこはいつもと変わらぬ空気が凪いでいた。
もしかしたら今夜の事は、いや、女と出会った事すら夢ではなかったのだろうか。
そう思えるほどの静寂。

申し訳程度に作られた細い歩道の真ん中にぽつりと、何か落ちている。
大して気にはならなかったが、男はそこまでゆっくりと歩いていった。
月の光をきらきらと受け返すそれは、見覚えのある携帯電話。
自分でシールを貼り、デコレーションしたのだと女が言っていた自慢の携帯だ。
開かれたままのそれは、女がつい先程まで使っていた事を物語っていた。
携帯が音楽を奏で、ぶるぶると震えだす。
画面には見知らぬ男の名前と、その後ろに「¥」のマークが四つ付いていた。
この男は多分、女にとって上客だったのだろう。
ぼんやりとそんな事を考える。
女はどこへ行ってしまったのか。
もう男にはどうでも良い事だった。
鳴り続ける女の仕事道具には目もくれず、ふらふらと覚束ない足取りで男は闇へ消えていった。









後には静寂が横たわるばかり・・・・















END














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言い訳?

殺伐とした事件が絶えない昨今。
闇の住人は喜ぶばかりではないと思った。
夜道を歩いていて、急にぞくりと背筋が寒くなって、訳も分からず逃げ出したくなる。
そんな感情に姿を与え、「ぶるぶる」という名前まで付けてくれた日本人の心の豊かさはどこへいってしまったんだろう。
きっと嘆いているに違いない。
人間が全て彼等を忘れてしまったら、消えていってしまう
だから彼等は時々都会に降りてきて、存在を示してくれる
そして、ほんの一握りでも。気紛れにこうして救ってくれていたら良いなぁなんて
そんな事を思ってしまう。

女が百鬼夜行に連れて行かれたか否かの判断はお任せします。








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