けらけら



けらけら




夜空に女の笑い声がこだまする。


泣くのに疲れた女が笑う。


笑って


笑って


笑ったその先には



何が待っているのだろう・・・・・





倩兮女【けらけらおんな】











男は、ある会社の係長という職に就いていた。
とは言っても、実力を買われた訳ではなく。
社員の少ない小さな会社故に、適当な人物がその男しかいなかったからである。
言わば、『穴埋め』といったところだろう。
その事実にも気付かず、男は実力を買われたから役に就けたのだと豪語していた。
当然周りの失笑にも気付いてはいない。
異常なプライドだけは高く、笑われる事が嫌いだと言うのに。


男の容姿は中の中。
特に秀でた所も無く、唯一誇れるのは背の高さだけにも関わらず、言葉巧みに女を口説き落とす事を楽しみとしていた。
その事実を知る女性社員の間では、相当毛嫌いされている。
自分をよく知らない、という事はどんなに恐ろしい事なのか。
男は一欠片も思いはしなかった。
人を欺き、己の享楽だけを求めて生きてきたのだ。
本当に大切なものの価値すらも分からないまま・・・。


「ねぇ、真由ちゃん。今日彼氏出張だよね?寂しくない?俺、行ってあげようか。」
給湯室でお茶を汲んでいた女性社員に馴れ馴れしく声を掛ける。
(また始まった・・・。ほんと懲りない奴だな。)
心の中で悪態をついた。
『五月蝿い、喋るな、即刻立ち去れ。』
と、言いたいところをぐっと我慢して作り笑顔を浮かべる。
「すみません〜。今日は実家に泊まるんです。今度あの人がいる時に遊びに来て下さい。」
そう言い、お茶を載せたお盆を持って会議室へと逃げて行った。
「ちっ・・・。」
先程までの笑顔はもうすでに無く、獲物を逃した獣の様な目になる。
他に目ぼしい女性社員も居ない為に、男は仕方なく諦めた。



二時間ほどの残業を終え、男が帰る頃には外はもう真っ暗だった。
電車に乗り込み、自宅近くの駅で降りる。
一人暮らしの狭いアパートに帰る自分を思うと、少しだけ寒さが身に沁みる。
ぶるりと震え、暗い夜道を歩き出した。
駅から家までは10分程度の道程だ。
(うちにはロクな女がいないな。)
携帯を触りながら歩いていると遠くのほうで、げらげらと女の品無い笑い声が聞こえてきた。
男は思わず眉を顰める。
(あんな女は一生結婚できないだろう・・・。)
女は女らしくあるべきだ。と古めかしい理想を掲げる男は溜息をついた。
家に近付くにつれ大きくなるその笑い声に辟易する。


げらげら


きゃはははは


まさか、自分のアパートの住人ではあるまいか。
だったら最悪だ。
そんな事まで考えてしまう。

(やけに耳につく笑い声だ。)
聞いていると、その声は只ひたすら笑っている。
何か面白かったとか、そんなものではなく。
嘲り笑うような印象を受けた。
男はなんだか自分が笑われているような気がして、次第に気分が悪くなっていった。
(早く帰って休みたい・・・。)
そう思っている間も笑い声は休む事無く聞こえ続ける。


げらげらげらげら


そこの角を曲がればもう自宅。
自分のアパートが見えてきて、少しほっとする。

だが、一段と笑い声は強くなった。
周りを歩く人は気にもとめない様子で道を急いでいる。
犬の散歩をする中年男性も、携帯を見ながら歩いている女子高生も。
まるであの笑い声が聞こえないようだ。
男は初めて何かがおかしい、と思い始めた。
いよいよ恐怖を感じてきた男が角を曲がり、自分の住むアパートを見上げれば二階建ての建物の上に大きな女が寄りかかり、こちらを見てげらげらと笑っていた。
中年女のような、老女のような。
瞬間、男は戦慄した。
自分はおかしくなってしまったのだろうか。
だが、こんな幻を見るほど病んではいないはず。
そう自分に言い聞かせるも空しく、女は尚も笑い続けた。
テレビの時代劇で良く見る、下町に住む女のような姿をしている。
その顔は実に奇妙で。不気味に目尻が垂れ下がり、大きな口の中はお歯黒で真っ黒だ。
そんな恐ろしいものが、他の誰でもなく自分を見て大口を開けて笑っている。
男は気を失いそうになった。
女は途端に笑うのを止め、一転恐ろしく冷たい目で男を一瞥したかと思うと『ふっ』と掻き消えた。

時間にしてものの数分ではあったが、男には何時間にも感じられた。
そのまま道路に膝をつき、座り込む。
気がついてみると、体中汗でびっしょりだ。
(何だ・・・今のは一体何だったんだ。)



それから男の苦悩の日々は始まった。




あの日の笑い声が耳について眠れない。
自分が些細な失敗でもしようものならそれは、一際大きくなって耳に響く。
いつ、あの不気味な女が目の前に姿を現すのかと思うと、恐ろしくて常に周りが気になった。
穴埋め、とはいえ役に就いているのだから休む事も許されない。
男はやっとの事で会社と自宅との往復を繰り返していた。
日に日にやつれていく男を心配した同僚が声を掛けても。
その心配そうな顔の下に『ざまぁみろ』という嘲りの表情が重なって、あの笑い声が勢いを増す。

げらげらげらげら

ぎゃははははは

(もう・・・もう、やめてくれ!!)

男は立ち上がり、声を掛けてくれた同僚に。
「どうせ、俺がこんなになってるのを面白がってるんだろう!!」
と、叫んでいた。
同僚も売り言葉に買い言葉で。
「友達もいない、彼女にも捨てられたお前を心配してやってるのは俺くらいなもんだぞ!」
机に置かれた冷めかけのお茶を男の顔にぶちまける。
「少し頭冷やせ!何があったんだか知らねーけど、そうなった原因をよく考えやがれ!」


何が原因?

俺は何もしてない

只、あの化け物が俺にまとわりついて離れないだけだ

ほら

今も笑い続けてる


自分しか見えていない男には原因なんて考えるほどの理性は皆無。
そんな男を女は笑い続ける。



げらげらげらげら



この一週間。ろくに睡眠も取れてなかった男の意識はそこでぷっつりと途切れてしまった。










『ねぇ、あの男どうしてやろうか。』

『さぁ〜。死ぬしかないんじゃない?』

『死んでも馬鹿は治んないっていうじゃん。』

『そっかー。』

きゃははははははははは

『彼女に捨てられたらしいよ。』

『あ〜当然だね。よく付き合ってたと思うよ。』

『だね。頭悪い男とは付き合いたくないもんだね〜。』

あははははははは



聞き覚えのある声が頭の中で反響する。
それは紛れも無く嘲笑。
あの女の笑い声と同じ。
分かっていた。
自分が皆に好かれていないという事実は分かっていた。
だが、認めたくは無かった。



好きじゃなくても良い

俺を見てくれ

俺という存在を、認めてくれ



『ねぇ、あいつさ。ここんとこおかしいらしいよ。』

『天罰だね。やっぱ神様見てるよ。』

『もう、その話やめよ。気分悪くなる。』

『もうどうでも良いよ。好きなように生きれば?って思う。』

『うんうん。こっちに迷惑さえ掛けなければ何やっても良いんじゃない?』

『だね〜。仕事さえちゃんとやってくれれば、後は無視すれば良いもんねー。』





それから訪れる








恐ろしいほどの







沈黙。













はっと、目が覚めるとそこは応接室のソファーの上だった。
誰かが運んでくれたのだろう。
近くで掃除をしていた女性社員が振り返る。
「あ、気が付かれました?ご気分は?」
ほぅっと、息をついて。ゆっくり頭を振った。
こちらを見つめる女性社員を見上げて、口説き体制に入る。
「心配してくれたの?」
いやらしい笑みを浮かべて訪ねる。
「勿論じゃないですか!代わりが居ない状態で抜けられたら迷惑するのはこっちですからね。それだけは避けてもらわないと。」
そう言い放って、くるりと背を向けた。

デジャヴ。

夢のセリフと重なる。
あの沈黙が蘇って二の句の告げようが無く男は固まってしまった。
「なーんてねっ!」
男に向き直った女性社員は笑顔だった。
「最近おかしかったから、ほんと心配だったんですよー。係長の事嫌ってた時もありましたけど、今じゃ何とも思いませんし。」
そう言う彼女も、前に男に泣かされた一人だった。
「過去は過去です。」
男は少しほっとした。
今は、あの女の下品な笑い声も聞こえない。
あのままだったら、取り殺されていたかもしれない。
ぞくりと背筋を冷たいものが走る。
それから逃れられた安堵感。
男はこれで全てが元通りになった。
そう思った。




だが、男を待っていたのは自分の存在を無かった事にする女性達。
笑って、笑って。すっきりした女達はもう、男に憎悪、嫌悪といった感情すら抱かなくなっていた。
交わす言葉は業務内容。
「おはよう。」
「おはようございます。」
目を合わせることも無いおざなりな挨拶。
「この書類、今日の三時までに上げてください。」
「分かった。・・・そういえば、この間さ・・・。」
言いかけると、女性社員はもう自分のデスクへ向かっていた。
普通の会話をしようにも、彼女達はその隙を与えてくれなかった。
彼女達と仕事でやり取りする度に、自分が「係長」と言う名の機械のように思えてくる。
仕事が円滑に回る為の機械。
男の心は次第に枯れていった。


これが、人の心を弄んだ罰。
自称「寂しがりや」は、言い訳にすらならなかった。


そうなって初めて男は、深く、深く後悔したが、それはもう何にもならない。
自分さえ良ければ良いと思っていた男が辿り着いた場所。
そこは、「孤独」いう名の地獄。






倩兮女は傷付いた女性達の心を投影して現れたのか。




それとも、男の気付かぬ罪悪感が見せた幻だったのか。




それは誰にも分からない。











けらけら







けらけら










END













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兮女(けらけらおんな)
これは、参考資料によりますと夜道に突然女の笑い声が聞こえてきてびっくりする。
声のした方を見ると、大きな女がコチラを見ていてびっくりする。
それで腰を抜かすと更に笑われてびっくりする。
と、三段仕込みの驚かせ妖怪のようです。
笑いにも色々種類がありますよね。
笑うと気分が良くなってアンチガン細胞が多くなるのだとか。
悲しい、苦しい、辛い、これらマイナス感情を笑って吹き飛ばすのは大変すばらしいです。
ですが世の中、「笑うしかない」という状況も多々ある訳で。
呆れられて、笑うしかないと判断された時。
その人はどうなるのでしょう・・・。
そんな思いを込めて書きました。
人に対する思いやりだけは、持ち続けたいものですね。



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