べとべとさん









駅からのいつもの帰り道。

途中まで同じ方向だった人の群れも散り、今は男一人だった。

30分に一本の往復電車しか通らない単線路線。

月曜日から金曜日までの毎日をそれで会社に通う。

家から駅までは最短で徒歩10分程度だ。

運動不足解消の為、男はいつも少し遠回りをして家路につく。

一人暮らし故に待つ家族もいない男はその日もゆっくりと歩を進めていた。

10時も過ぎるとコンビニ以外の店は閉まり、車の往来も途切れてしまう。

夜は殊の外静かだ。

そんな小さな町を男は気に入っていた。

自分を追い抜く風の冷たさに身を縮ませ、コートの襟を立てる。

冬の冷気にさらされた街灯は震えているように見えた。

いつもの町に、いつもの帰り道。

いつまでこんな生活が続くのだろう。

もう何年も同じ勤めで、取り立てて面白い事もない。

同僚は惚れた腫れたで一喜一憂しているが、それを羨ましいと思った事などなかった。

いつかこんな平凡な生活から抜け出して、皆をあっと言わせてやりたい。

男はそんな妄想ばかりを膨らませていた。



『ひたひた』

後ろから足音が聞こえる。

もう何ヶ月もこの時間に同じ道を行く人などいなかった。

珍しい事もあるもんだと、男はさして気にもとめない。

だが、ふと思った。

何故足音は突然聞こえたのだろう。

駅から人がばらけてから、後ろを振り返ったが自分と同じ道には誰一人としていなかった。

考え事に集中して追いつかれた事に気付かなかったのだろうか。

それにしては・・・・

足音は追い抜かすでもなく、曲がる訳でもなく。

一定の距離のまま。只、付いて来る。

背筋にぞくりとしたものが走った。

通り魔だろうか。

だが、ここで走って逃げれば追いかけて来て殺されるかもしれない。

かと言って、後ろを振り返る勇気も持ち合わせてはいなかった。

男がそんな事を考えている間も、相変わらず足音は付いて来る。

不気味な距離感を保ちながら。

極力音を立てないように静かに歩く。

耳を澄ますと、『ひたひた』という足音はまるで裸足。

急に男に恐怖が襲ってきた。

今すぐ逃げ出したい!

家までは後10分もある。

いつもの道を通らなければ良かった。

歩きながらでも膝が震えているのが分かる。

男は止まれば先に行くかと、少し歩みを緩めた。

と、突然足音が早まった。



『ひたひた』


『ひたひた』


自分のすぐ後ろに迫ってきているのが気配で分かる。

耳元で「しゅ〜しゅ〜」という獣の呻き声のようなものが聞こえる。

右肩越しに物凄い腐臭。

男は顔を背けた。

頭の中には、耳まで裂け、中は真っ赤な口が想像された。

恐ろしさの余り歯の根が噛み合わない。

止まれば、喰われる。

逃げれば殺される。

直感でそう感じた男は、震える足でなんとか歩いた。

後ろの化け物は男が歩みを止めない限り、それ以上近付いてくる事はない。



ふと、幼い頃に祖母から聞いた怪談を思い出した。

「夜道歩いてると、後ろから付けて来る足音が聞こえたらそれはべとべとさんだ。」

「この妖怪はね、なぁんも悪さしない。」

「けど、前に行く事ができないから困ってるんだよ。」

「じゃあ、どうするの?家まで付いて来るの?」

「そういう時はね・・・・。」



男は目を瞑り、すっと左へ移動し道を開けた。

「べとべとさん、お先へお行きなさい。」

やっとの事でそれだけ口にした。

その途端、後ろのモノは一陣の風と共に男の横を通り過ぎて行った。

『ありがとう』

思いの外、それは優しい声だった。






風と共に鼻に届いた香りは、今まで嗅いだ事もないくらい芳しいものだった。

後ろにいた時は何故あんなにも恐ろしいと思ったのだろう。

見えぬ物に対する恐怖。

人間は先入観で物事を決め付けてしまう。

あれは、恐ろしいものでも何でもなく、とても素敵なものだったのではないだろうか。






とうの昔に祖母は亡くなったが、あれは自分を戒める為に祖母が遣わしてくれたのだろうか。

そんな事を考えた。

祖母は眠りにつく時いつも言っていた。

「今日もありがとうございました。明日もよろしくお願いします。」

誰に言っているのだろう。

そんな独り言を馬鹿げた事だと思っていた。

だが、一日を無事に終える事ができるのは、決して当たり前ではない。

「人は、生かさせてもらってるんだよ。」

思い出したら、涙が溢れてきた。















次の日、夜10時頃。

小さな町の小さな駅から人が降りてくる。

いつもの様に散らばり、家路につく。

そんな光景を昨日とは違った気持ちで歩く。

いつもの道をいつもの様に帰ることが出来る幸せを、男は噛み締めながら。

「ありがとう」

と、呟いた。












END








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べとべとさんは本来、「夜道を歩いていると誰かに付けられているような感じ」
に名前をつけたもの。
気のせいって事が多いから、ああやって
「べとべとさん、お先にお行きなさい」
と呪文(?)を言うと、気配が消えるっていう妖怪なんですね。
けど、今は怖い時代だから後ろから足音がしたら通り魔かと思ってしまうですよね(笑
車が普及して、歩く事も少なくなって、町も明るくなって、そんな気配を感じる暇もない現代。
駅からの数十分。
そんな気配を感じたら、今度言ってみて下さい^^
そうしたら、「ありがとう」って聞こえてくるかもですよ?^^






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